−−そもそも、本書を執筆しようと思われたきっかけは何だったのでしょうか。
中松先生 こんなこと言っていいのかわからないけど、あるパーティでPHP研究所の社長から声をかけられて、「発明ノート」というのを書いてもらえませんかと頼まれたんですよ。
−−社長直々の依頼だったんですか。
中松先生 そう。そのときのパーティはビジネスとはまったく関係なかったんだけど、改めてPHP研究所の社長は優秀だなと思いましたね。だって私をつかまえて、いきなり「発明ノート」ですよ。狙いがいいんです(笑)。
−−最初に「発明ノート」というタイトルがあったんですね。
中松先生 私が社長は優秀だなと思ったのは、この「ノート」という言葉なんですよ。発明の本を書いてくださいというのは、普通なんです。でも「ノート」という命題を与えられたんだから、それは普通のものとは違うものになります。そこが素晴らしい。だから、そういう優秀な社長が率いる出版社で本を出すのもいいかなと思ったんです。その点、編集者もあまり余計なことはしなかった(笑)。
−−そうすると、本書は先生の意図通りのものになったということですか。
中松先生 まあ、そうなんだけど、ただ320ページだと私の全部を出し切れていない。相当詰め込んだけど、中にはちょっと舌足らずのところもあるわけなんだよね。
−−その部分はぜひ次回作でお願いします(笑)。ところで、本書の最初のほうにご両親のお話がでてきますけど、かなりご立派な方のようでした。ご家庭の雰囲気はどのようなものだったのでしょうか。
中松先生 母からは3歳の頃から物理や化学、英語、国語を教えられました(笑)。まだ砂遊びとか積み木とかで遊ぶような頃ですよ。普通の家庭とはそこが違うと思います。
例えば、母と一緒に歩いているときに、向こうから女性が歩いてきたとします。普通だったらやり過ごしますよね、でも母は「あの人はヒコページはいいけどマメページはどうかな?」と言うんです。それで私に国語を教えているわけですよ。
−−ヒコページとマメページですか?
中松先生 判りませんか(笑)。それでは、顔という漢字を想像してください。顔というのは彦と頁から成りますね。
−−あー、なるほど。
中松先生 それで頭が豆と頁。そういうふうに、いつでも勉強を教えてもらっていたわけなんです。だから、小さい頃から頭は鍛えられましたね。3歳で教えられたことは今でも覚えていますし、まさに、三つ子の魂百までということです。
あと、母から勉強を教わっているときに、消しゴムが机から落ちたことがあり、私が「見つかりません」と言うと、母は「熱力学の第二法則により必ずありますから見つけなさい」と言うんですよ。もう普通のお母さんとはぜんぜん違う(笑)。
だから、学校の授業なんてみんな教わったことばかり。私にとってはレベルが低いわけですよ。成績なんて今でいうオール5だったし。東大でも、普通の人が3年かけて取る単位を、1年半ですべて取っちゃったからね。
−−お母様は勉強に対して厳しいということはなかったですか?
中松先生 いやいや、私は一度も「勉強しなさい」と言われたことがなかったんです。普段から勉強ばっかりやっていましたからね。母はよく私のことを「この子は勉強が好きでね〜」と会う人に紹介していました。とにかく勉強が好きで、成績が上がると、それがまた嬉しくて勉強をするという感じでしたね。
−−お母様のことは本書にもよく出てくるのですが、お父様に関してはあまり出てきません。何かお父様に関する思い出とかありましたら教えてください。
中松先生 父のことをなぜ書かなかったかといいますと、書いたら自慢話になってしまうからです(笑)。この本には徳川幕府の直参旗本の家と書いたんですが、もともと中松という苗字は松平家の真ん中にいるということから付けられたんです。あの赤穂城の引渡しに幕府側の代表として行ったのがうちの先祖なんですよ。でも、そういうのをいろいろ書いたら「発明ノート」の趣旨から外れてしまうからね(笑)。
まあ、父はそういう血筋のよさを感じさせる、おっとりとした性格の人でした。でも、その性格が災いして、大東亜戦争で東京のほとんどが焼けた時、青山、原宿、四谷などに持っていた土地に焼け出された人が勝手に住みついたんです。父はお坊ちゃんでしたから、それらの土地を裁判で取り戻すということもしなかった。母は孟母三遷と同じく私の小学校移転に伴い、現在ドクター・中松ハウスが建っている世田谷区下馬の土地を買い、一家で移り住んだわけです。今は、家の前の通りはドクター・中松ストリートになっていますよ(写真参照)。
−−本書には先生の子供時代のお写真も載っているんですが、すごくいいご家庭だなと思いました。それで次に、三井物産時代のお話になるんですが、当時は「スポーツの加茂、発明の中松」と呼ばれるほどの名物社員だったそうですね。
中松先生 当時創刊されたばかりの「週刊新潮」に、6ページを使って1人の人物にフォーカスを当てるという企画があって、私に白羽の矢が立ったわけです。インタビュアーは草柳大蔵さんで、この地にあった昔の自宅に来たのを今でも覚えています。
−−本書にもありますけど、入社してすぐヘリコプター撒布装置や架線装置を発明されていますが、すでに発明家として有名だったわけですよね。
中松先生 いやー、有名じゃないと思いますね。それよりもむしろ価値を判ってもらえない存在だったんじゃないでしょうか。それが物産の株が1日14円も私の発明で上がったので、将来の社長候補として位置づけられていた。そもそも商社にいる人間がいくら発明をしても、関係ないんです。それなのに、なぜ私のような東大工学部を卒業したエンジニアが商社に入ったかというと、うちの祖父が三井財閥のトップにいたからなんですよ。
−−それは初耳でした。
中松先生 それともうひとつ、私は飛行機の設計をやりたかったんです。戦後GHQによって、飛行機の開発は全面的に禁止されてしまった。私が海軍機関学校に行ったのも、東大に入ったのもすべて飛行機をやりたかったからなんです。ただ、ほとんどの飛行機設計者は飛行機をあきらめて鉄道研究所に移ってしまった。まあそれで新幹線ができたようなものなんだけどね。
でも、私は意志を変えなくて、東大航空研究会というのを勝手につくっちゃったわけ。それで当時の東大の学生に飛行機の研究を引き続きやるからと呼びかけたんです。工学部の学生全員に呼びかけて、集まったのはわずか5人だったんだけど、そのうちの2人が富士重工に入って飛行機の機体やエンジンの開発にかかわって、もう1人が東大の航空学科の主任教授になった。だから、私のつくった航空研究会というのが、後に日本の航空技術の発展に寄与したんだよね。
−−それで、三井物産と飛行機との関係はどうだったんですか。
中松先生 当時、飛行機に関わっている大会社は三井物産が主力だったんです。だから、入社してどこに行きたいか聞かれたときに、迷わず航空機課と答えました。そこで何をやったかというと、今の川崎重工や富士重工にアメリカから技術ライセンスで飛行機をつくらせたんです。また、全日空の前身である日本ヘリコプター輸送株式会社の設立にも関わりました。だから、戦後の日本の航空機産業は私が始めたようなものです。
−−先生は戦後の日本航空産業に深く関わっていたわけですね。
中松先生 実は全日空などの航空産業だけじゃなく、富士通の成育にも関わっているんです。また、原子力会社の創立にも。私は戦後日本における各産業の黎明期にいろいろな役割を担ってきたんですよ。この本の中で皮肉を込めて「私は『発明家』なのだろうか」と書いたのはそのためなんです。
ただ、日本で発明家という職業を世間に広く認知させたのは私かなとは思いますけど。
−−なるほど、よく判りました。ところで、本書にはドクター・中松ハウスについて、画期的な家であると書かれていますが、具体的にどのように画期的なのか教えていただけますか。また、先生は選挙にお出になりますが、発明家が選挙に出るのがよく判らないんですが……。
中松先生 発明のカテゴリーには、見える発明と見えない発明があるわけなんです。しかし、エジソンにしても見える発明しかやっていなかった。私は人のやっていないこと、つまり見えない発明をやりますよと。見えない発明というのは、例えば人間関係であるとか、経済活動であるとか、幸せとか……。そんな見えないものが発明の対象であり、その集大成が政治なんです。だから、私は政治の発明といっているんだけど、みんな判っていない。
−−すみません、私も判っていませんでした。
中松先生 今の政治なんか頭の悪い連中が自分のためだけにやっている。それも我々の税金を使ってですよ。それではいけないんです。だから、私が税金を安くして、もっとスマートな政治を行なうと言っているんです。でも、それが全然理解されないんです。判らないから票が集まらない(笑)。それで、何の話でしたっけ?
−−ドクター・中松ハウスの……。
中松先生 そうそう、その政治のなかでも重要な課題が住宅問題なんです。ル・コルビュジェという建築家がいるんだけど、日本の建築家はほとんどがル・コルビュジェのものまねでしかない。みんないろいろ偉そうにいってるけどね。建築も発明なんです。まねの建築じゃダメなんですよ。だから、私の建築の発明として自分の土地に建物をつくったんです。設計に10年かかりました。施工に3年半かかったから、トータルで13年以上かかったのかな。もちろん、設計は私がやりましたし、図面も引きました。現場監督もしました。
今の耐震設計だって、偽装とかいろいろ問題になっているんだけど、私に言わせれば元々の基準が間違っているんですよ。だから、うちは独自の耐震設計でやっています。まず柱が無い。これは、飛行機の構造設計法で設計したからです。飛行機には柱はありませんから。だいたい柱があるから地震に弱い構造になるんです。ほとんどのビルは柱があるけど、みんなダメだと思います。
−−まず、地震に強いという建築なんですね。
中松先生 次に重要なのが、環境問題。みなさん知らないと思うけど、世の中でCO2を最も出しているのは実は住宅なんです。みんなクルマだと考えますけど、違うんですよ。だから、私の建築の発明は環境に対する発明でもあるわけです。CO2の排出を抑えた環境によい建築。こんな環境に取り組んだ建物というのは誰もやっていませんでしたから。
−−あと、本書では、泥棒が入らない家とも書いていますが、それはどのようなことなのでしょうか。
中松先生 それが、3番目の住み心地の良さにつながるんです。泥棒に入られるような家だったら、住み心地が悪いでしょ。警察庁とかはドアに2つの鍵を付ける「ツー・ロック」を推奨していますが、それも鍵が破られたらおしまいなんです。だから、私の理論では鍵をつけないんです。だって、鍵があるから破られるんですよね。鍵がなければ破られない。
−−ただ、鍵がなければ入り放題の気もしますが……。
中松先生 だから入り口も無くすんですよ。鍵がなくて入り口がなければ誰も侵入出来ない。当然ですよ。
−−でも、それではどこから入るのでしょうか。
中松先生 それが最大の問題なんです。普通の設計家はまず入り口を設計するけど、私は入り口が無いことを前提として設計するんだから。防犯上、入り口も無く、鍵も無い。理論的には完璧でしょ。それが発明の1.スジなんです。問題はどう入るかなんですよ。このままでは家族も入れない(笑)。
−−その問題の解決は難しそうですね。
中松先生 そこで2.ピカ、3.イキなんです。どのようにしたのかは、実際に見た人しか判らない。泥棒もやって来ればいいんですよ(笑)。もっとも、入ったとしても出られないようになっている。ネズミ捕りの原理でね。だから家の中に留置場も作っている。もうひとつ、落とし穴をつくろうと言ったんだけど、これは周りから止められた(笑)。
−−なかなか楽しそうな家ですね(笑)。ところで、こうしてお話をうかがっていても、先生はとても元気で若々しいのですが、何か秘訣とかあるのでしょうか。
中松先生 そう、まず真面目だということだね。真面目というのは、決して悪いことをしない。嘘もつかないし、人に迷惑をかけない。真面目に生きるというのはそういうことですよ。
−−それを80年間実践されてきたということでしょうか。
中松先生 もちろん、子どものときから真面目にやってきて、小学校に入学してから東大を卒業するまで、無遅刻無欠席。東大2年生のときに、これまでにない大雪の日があったんですよ。もう胸まで雪が積もってね。バスも鉄道もすべて止まったんだけど、そのときは朝4時に起きて、7時間かけて、深い雪の中を本郷のキャンパスまで歩いて行きました。そこまでして、欠席はしなかった。これは真面目の極地ですよ。
もちろん、真面目に生きるということは、大変な努力が必要です。それに強い精神力と体力も欠かせません。私は今までこの三つを大切にして生きてきたんです。それは現在でも変わりません。
−−本書ではからだにいいものを食べようと提唱していますね。
中松先生 さっきの話はスピリチュアルな話だけれど、フィジカルの面でも正しくやらなければならないんです。
男の42歳は厄年といわれますが、どうしても42歳の前後になると目が悪くなったり、足腰が弱くなったりする。つまり老化の始まりなんですよ。若々しいとは老化をしないということですから、42歳から気をつけないと、どんどん老化が進んでしまいます。
2005年に私がIgノーベル賞を受賞したのは、42歳から34年間、毎日の食事を分析・研究したことが評価されたからです。それで判ったのは、1日に3回食事するよりは、2回のほうが寿命が延びるし、若さを保てる。さらに2回よりは1回のほうが、若さを保てるということ。つまり、食事の回数も若さ、つまり寿命に影響を与えるんです。
それから、お酒を飲んだり、タバコをすったりすると、身体によくない。よくお酒は百薬の長というけれど、そんなのは嘘で、寿命を縮めるのです。また、食べ物もめったやたらに食べてはいけない。例えば、肉でも牛肉、豚肉、鶏肉、魚、その他に分けられるんですが、その中で食べてはいけないものもある。これなんかは本書に書いてあるから、ぜひ読んでもらいたい。
−−よく判りました。それでは、最後に読者ならびに先生のファンにコメントをお願いします。
中松先生 とにかく、読んでくださいということです。絶対に役に立ちますから。できれば、日本全国1億2千万人に1冊ずつ、1億2千万冊は出てほしい(笑)。一家に1冊ではなく、1人に1冊。これには私の5歳から74年間のすべてのノウハウが凝縮されているんですから、それだけの価値はあります。 |
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中松義郎先生のプロフィール
なかまつ・よしろう
1928年6月26日、東京都生まれ。東京大学工学部卒業。国際創造学者。工学博士、法学博士、医学博士、理学博士、人文学博士。
5歳で最初の発明をし、灯油ポンプ、フロッピーディスク、カラオケ、ファクシミリ、人工心臓、燃料電池などを次々に発明、発明件数は3351件にのぼる(2007年9月現在)。
エジソンの1093件を抜き世界第1位。IBM社に16の特許をライセンスしている世界唯一の個人。『ニューズウィーク』誌の「世界12傑」に日本人から唯一人選ばれ、その価値1時間1万ドルと評価される。
Igノーベル賞受賞(ハーバード大学、MITで記念講義)。米国科学学会で「世界一の偉大な科学者」に選定される。ガンジー平和賞受賞、米国国会表彰。ブッシュ大統領から親書。ハリウッドで歴史上初の日本偉人伝『ドクター中松・ストーリー』を制作、全世界で上映される予定。
教授、上級教授として、スタンフォード大学、シラキュース大学、ペンシルバニア大学、コロンビア大学、東京大学ほかで講義。
ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークなど17市で「ドクター中松デー」が法律で制定。米国市州の名誉市民に選定。
全米ネットTV『ライフスタイル・オブ・リッチ・アンド・フェイマス』『デイビッドレターマン』で日本のナンバーワンとして紹介。ABC、CNN『国際Q&A』、BBC『フランク・スキナーショー』ほかに出演。
アメリカ大リーグ・パイレーツの始球式を大統領に代わり行なう。
ドクター・中松先生のHP
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